- アービトレイジとは
- 相場の値鞘(ねざや−価格差)を利用して利益を得る取引を「アービトレイジ(裁定取引)」と呼ぶ。 2つの市場間で同一の商品を取引すると、それぞれ価格が異なることがある。商品が割高になったものを売って同時に割安なほうを買という取引方法。 理論上は、ノーリスクで利益を得る事が出来るが、この理論に基づいてレートが建つのは、規制が無く資本移動が自由に行なわれる市場においてのみである。 外国為替の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。 太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、東は渤海を滅ぼして、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。 さらに二代目耶律徳光は五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と中国式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。 FXは燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼のほうでもこの時期には皇帝の擁立合戦が起きて、内部での争いに忙しく宋に介入する暇はなかった。六代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り?淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束し、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。 その後は宋から入る収入により経済力をつけた事で国力を増大させ、西の西夏を服属させる事に成功し、北アジアの最強国となった。また豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買っていた。 FXは次第に強大になり、1115年には自分達の王朝金を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼などもある)。 新羅は朝鮮半島を統一し、仏教文化を成立させただけでなく、民衆の生活も豊かにした。しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起きた他、地方でも農民の反乱が起き、新羅の政府の命令は中央から遠い地方では無視されるようになった。この乱れてしまった政局は真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。 王建は後高句麗の将軍であった。王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、動員された民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い、反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こし、918年に高麗を興した。朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が続き、分裂したままかと思われたが、935年、後百済の王の甄萱が四男に王位を継がせようとして長男の神劍(後百済の第2代王)に反乱を起こされた。神劍は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。結局、甄萱は935年3月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同年、新羅は高麗に自ら降伏した。高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。 FX、926年に北方民族契丹の遼(916年成立)が渤海を滅ぼすと、高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配する。これにより現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の西部を合わせた地域を版図とした。また、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。 宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ。さらに993年から朝貢を求めて大規模な侵入を行う。高麗はこれを撃退したのち、江東6州の獲得と引換えに翌994年に朝貢した。1009年に高麗で政変が起きると、契丹はこの隙を突いて1010年に再度侵入し、首都開城に攻め込む。しかし高麗の将軍・姜邯賛の策により、開城には高麗軍も物資もなく、補給に難が生じた契丹軍は開城から後退。この間高麗王は羅州に避難した。姜邯賛は西京以北の要所要所に伏兵を配置し、後退する契丹軍に反撃を加えて勝利した。こののちも契丹は1013年から1015年まで継続して侵入するが高麗は1015年にこれを撃退する。しかし契丹はその年のうちに再再度侵攻した。高麗は1016年に宋の年号を用いた。1018年、蘇排押率いる10万の契丹軍が高麗に攻め込むが姜邯賛率いる高麗軍14万が鴨緑江と亀城にて、これを迎え撃ち大勝利を収めた。この戦いで生き残った契丹兵は、僅か数千に過ぎなかった。(亀州大捷)。侵攻は1019年まで続き、高麗は何度もこれを撃退するが、1020年に和がなり、1022年には遼の年号を用いて再び朝貢した。 その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。女真は1019年に日本へ侵攻(刀伊の入寇)した民族だと考えられているが、契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻し、高麗青磁など美しい磁器が発達し、仏教が普及した。 この間に女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年に金を建て、1125年に遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。 12世紀中頃から、王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)である鄭仲夫がクーデターを起こして国王を廃位し、武臣政権時代が始まる。しかし、他の武臣の反発を招き、1179年に暗殺される。その後、李義ミンが政権を握るが、崔忠献により暗殺され、その後、武臣同士の内紛を制して1194年に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。 崔氏武臣政権下、北方ではチンギスハン率いるモンゴル(蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。このため1224年に金の年号を止め、独立を回復した。しかし、1231年から蒙古(後の元)の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開京から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗は蒙古に服属し、太子(王子)を人質として蒙古に差し出した。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。 一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、倭寇などが沿岸を襲い始めていたようである(新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない)。 蒙古はこれまでの契丹や女真と異なり、露骨な内政干渉をしてきた。国内には多くの蒙古軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた(1290年返還)。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、蒙古支配に納得しない人々が反乱し、三別抄の乱となった。反乱者たちは済州島に移って徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年と1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため高麗は前線基地として、兵站の補給と軍艦の建造を命令され、これらの協力と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。一方、高麗史には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。