はじめる前にに知っておくべき外国為替の基礎

アスクレートとは
金融商品を売ってもらうときの値段。売買の量等によって値段が異なる場合がある。 の首都の開京(現在の北朝鮮の開城市)の礼成江河口の国際貿易港だった碧瀾渡でアラビア商人が賑やかだった。『高麗史』の記録には1024年(顕宗15年)と1025年(顕宗16年)、1040年(靖宗6年)にアラビアと大食国(ペルシア)の商人らが高麗に入朝し、産物を献上したと記されている。高麗はアラビアから水銀・香料・ガラス工芸品・珊瑚を輸入した。この時代に高麗の名称がヨーロッパに知られ、アラビアの商人たちが高麗(コリョ)を「コリア」と呼び始め、今の朝鮮を指す英語表記「Korea」になった。 高麗は建国初期に契丹に対して「渤海を滅ぼした民族とは共存できない」と言い、太祖は契丹との貿易を禁止した。遼を建国した契丹の国土が宋と高麗の間にかけて存在したので、高麗は海上貿易を通じて宋と交易した。3回目の遼の高麗侵攻が失敗で終わってから、高麗と遼は国交を回復し、 高麗は遼に書籍・食糧・銅・鉄・朝鮮人参を輸出した。高麗は遼から銀と毛皮を輸入した。 は宋と高麗両国に朝貢してきたが、12世紀に入ると満州で成長し、金を建国した。高麗は女真に毛皮や馬を輸入し、書籍・農機具を輸出した。 高麗の文学は初期の詩と中期・後期の小説で区分できる。高麗仁宗時代の詩人鄭知常の漢詩の『送人』は“晴れ上った長い堤に草色が濃いのに…”で始まる詩で、現在まで愛されている。その他に文学の形式の高麗歌謡が流行り、恋人との別れを悲しむ『西京別曲』、『カシリ(行ってしまいますよね)』がある。また俗世を脱して自分の寂しさや悲哀を歌った『青山別曲』は『西京別曲』・『カシリ』と共に現存する高麗歌謡として高く評価されている。中期と後期には執権者や社会の矛盾を風刺した小説が書かれた。特に物事を擬人化して創作した假伝体小説が流行った。酒を擬人化した林椿の『麹醇伝』や李奎報の『麹先生伝』が有名である。 高麗初期から仏教は王族たちの支援をもらいながら発展した。太祖は開京に多い寺院を建築したし、訓要十條で仏教を崇尚して燃燈会と八関会など仏教の行事を盛大に開催することを頼んで仏教に対する国家の指針を提示した。貴族たちも仏教に大きい関心を見せたが、これらは政治的理念にした儒教と信仰にした仏教をお互いに代置されることと思わなかった。民たちも起伏信仰として仏教を信奉した。光宗の治世からは王が僧科を実施して、試験に合格した者には僧侶の地位を与えたし、国師を置いてこれらにとって王の顧問役目を引き受けるようにした。また、寺院には土地を支給して僧侶たちに各種恩恵を与えた。 ipoには仏教思想に対する体系が整備されながら仏教と係わる書籍を皆集めて体系化する大蔵経が編纂された。大蔵経の内容は仏教の経典たちを集大成したこととして釈迦の説教を記録した経蔵、すべての戒律を記録した律蔵、仏者たちの論説を記録した論蔵で構成なっている。高麗は外勢の侵入を受ける度に仏陀の力を借りて勝利しようと大蔵経を刊行した。元の侵攻が開始された時には八萬大蔵経を刊行した。38年にわたって完成した八萬大蔵経は膨大な内容を記したけれども誤った字や抜けた字がほとんどない精緻さと字体の美しさのため世界遺産に指定されたりした。現在海印寺で保管している。 高麗には道教も盛んだったが、不老長生と現世での豊かさを追い求めることを特徴にする道教は幾多の神々を仕えながら災いから脱して救援を望んで国の平安と王室の繁栄を祈った。これのために道教的行事がよく開催されたし、宮廷では天に祭祀を執り行なう?祭を開催した。新羅後期に流行った風水地理説は未来を予言する図讖思想が追加されて高麗時代に大きく流行った。高麗時代には開京と西京(平壌)が明堂といううわさが流布して西京遷都と北進政策推進の理論的根拠になった。しかしこのような明堂説は開京勢力と西京勢力の政治的闘いに利用されたりした。文宗の治世以後ではソウルが明堂といううわさが流布してこちらを南京で改称して王宮を建てて王がしばらくとどまったりした。 個人向け国債の社会は朝鮮の歴史にとって新羅に続き、女性の社会的地位が高いという時代だった。もちろん、政治や生活全般には男が優先されたが、財産の分配は息子と嫁いだ娘を同等に待遇した。また夫に殴られた妻が官庁に告発し、官庁に引っぱられた夫がむち打ちの刑をうけた事もあった。忠烈王の時、朴楡は王に貴族の畜妾(ちくしょう)制度を法律で定めることを建議した。後に朴楡は町で老婆と女たちに後ろ指を指され、面前で悪口を言われた。離婚と再婚が自由だったというが、特別な理由もなく妻を見捨てると法律によって処罰された。12世紀に宋の徐兢が高麗を訪問してから書いた『高麗図経』には、「離婚率が高いし、恋愛と別れが多すぎるので、風習がおかしい」と書かれている。息子がいなくても祭祀は娘と婿が行なった。婿取婚の比率も高い、女性は影響力が強かった。 高麗では貿易が栄え、特に開京から近い礼成江河口にある港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。詳らかなことは下を参照。 高麗は宋に入朝し、親宋を標榜した。宋は高麗の最大の貿易国だった。高麗は宋に金・銀・螺鈿漆器・花茣蓙・紙・銅・陶磁器(高麗青磁)・朝鮮人参を輸出し、宋から絹・薬材・書籍・楽器・香料を輸入した。1976年に韓国の全羅南道新安の沖で高麗と宋の難破船が発見され、宋と高麗の遺物18000点が引き揚げた。 高麗は役人たちを養成するために全国に多い学校を建てて民たちに教育を奨励した。開京には今の国立大学校にあたる国子監があった。国子監には国子学、太学、四門学のような儒学部と律学、書学、算学などの技術学部があった。儒学部には名望高い高位級貴族たちの子弟が入学したし、技術学部には下級貴族たちの子弟と庶民たちの子弟が入学した。そして地方ちほうには地方貴族たちと庶民たちの教育を担当する郷校があった。 高麗は光宗が科挙を実施しながら漢文学が大きく発展した。成宗の治世以後文治主義が盛んさによって漢文学は貴族たちの必須な教養になったし、朴寅亮と鄭知常など優秀な詩人たちが登場した。民衆社会では作曲家と作詞者の名前が不明である俗謡という歌謡が流行った。 資産運用に生きた高麗の貴族たちは自分たちの欲望を満たすために多様な芸術作品を作って鑑賞したから芸術分野で大きく発展した。その中でも一番脚光を浴びた分野は工芸だった。工芸は貴族たちの生活道具と仏教儀式ぎしきに使われる道具などを中心に発展したし、特に磁器工芸がすぐれた。高麗の磁器は新羅と渤海伝統と技術を土台で宋の磁器技術を受け入れて貴族たちの全盛期の11世紀に独自の境地を成した。磁器の中で一番有名なことは翡翠色が出る青磁なのに、外国人たちも天下の名品と認めた。高麗の金属工芸も仏教道具を中心に大きく発展した。 高麗時代には主に王宮と寺刹を建築したが現在まで保存している建物はほとんどない。高麗の石塔は新羅の石塔様式を土台で独自の造形感覚を加味して多様な形態に製作された。高麗の佛像は新羅以来の造形伝統を受け継ぐ様式が主流をなしたが、時期と地域によって形態に差がある。高麗時代には大型鉄仏像をたくさん作られたし、人々がたくさん過ぎ去る町角にも巨大な仏像らを作っておいたりした。 絵画の場合、王族たちと貴族たちの依頼を受け入れて仏画がたくさん描かれた。特に高麗の画家たちは極楽往生を祈る阿彌陀仏図と地蔵菩薩図、観世音菩薩図をたくさん描いた。また、仏教の経典を筆写するとか印刷する時、最初のページにその経典の内容を絵で説明した写経画も流行った。高麗後期には四君子を主題にした文人画が流行った。 遼の政治体制は遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で望み、南は唐制を模倣した法制で望んだ。 北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られた物である。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。