- アライバル・ビルとは
- 貨物の到着後に支払われる為替手形。約定品が到着したうえ船積書類と引換えに支払われる条件の手形をいう。 FX 初心者を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。 包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。 その後、金の人質となっていた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。 唐が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして科挙を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。春秋戦国時代、魏晋南北朝時代、五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。 日経225の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、科挙に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。 この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、簒奪劇が二度と起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。 先物取引の改革に付いてはここでは各節で軽く触れるに留め、詳細は新法・旧法の争いを参照のこと。 宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていたいわゆる使職体制を受け継いでいる。唐の律令体制に於いては極めて細密かつ完成された官制が整備されていたが、唐玄宗期以降の急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離が進んでいた。そこで実態に即するために律令にて定められていない官(令外官)の使職が置かれ、律令の官は形骸のみを残し、実権は使職に移った。 唐滅亡後の五代に於いても新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖・太宗は成立まもない国家が混乱することを恐れ、節度使の権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的・体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて寄禄官や職(館職)といった実際の職掌を示さない職の号があるために宋初の官制は歴代でも最も解りにくいといわれる。 中書門下省 先物取引を司る。長官は同中書門下平章事(略して同平章事。2ないし3名)。同中書門下平章事を助ける参知政事(2名)。主に高級官僚の人事を行う。なお中書省・門下省は形骸だけながら別に存在している。 枢密院 軍政を司る。長官は枢密使・副長官は副枢密使(又は知枢密院事・同知枢密院事)であり、その下に簽書枢密院事・同簽書枢密院事などの役職がある。 このうち、同中書門下平章事は宰相、参知政事・枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)は執政と呼ばれ、合わせて宰執と呼ばれる。この数人の宰執が皇帝を前にして合議制で政策を決定する。つまり宰相と言えども議論の場の中の一人に過ぎず、権臣に皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖の措置の一つである。 これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。 三司 財政を司る。唐制の戸部、唐代に設置された使職の塩鉄部・度支部が合体して出来たものである。長官は三司使・各部ごとに三司副使が一人・判官三人が付く。 翰林学士 皇帝の命令を詔勅として文章化する役職。宋になって詔勅の数が増えたことから重要でないものを取り扱う知制誥が新設された。翰林学士は宰執へのエリートコースとされた。 刑罰を司る。詳しくは#司法の節を参照。 唐の三省・六部・九寺・五監の役職は全てその名を残している。しかしこれらには実際の職掌は無く、単に官位・俸禄を示すものである。これを寄禄官(官・本官などとも)と言い、これに対して実際の職掌は差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。館職は文章・学問に秀でた者に対して、試験を行って任命される差遣の一種で、これを帯びた者は昇進の速度が格段に早くなった。 三司の整理。経済に関するほとんど全てを司る三司は非常に巨大かつ複雑な機構と化していたが、王安石は制置三司条例司という部署を作って三司の改革に乗り出し、に三司の権限を司農寺・軍器監・将作監などの他部署に吸収させ、三司は単に経済関連の文書業務を担当するものとした。元豊時にはこの残った三司を戸部に吸収させる。 名目的には中書・門下・尚書の三省を建て、それぞれの長官はそれぞれ中書令・門下侍中・尚書令であるが、これらの役職には誰も任命されず、尚書左僕射に門下侍郎(門下省副長官)を兼任させて尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射に中書侍郎(中書省副長官)を兼任させて尚書右僕射兼中書侍郎とそれぞれ称して宰相とした。また参知政事の代わりに尚書左丞・尚書右丞を設けて補佐とした。 唐制六部を形骸から実際の権限を持つものに復活させる。中書門下や枢密院の持つ人事権は吏部に、審刑院などの持つ裁判権は刑部にそれぞれ吸収させた。 地方官制における最大の行政区分は州、その下に県がある。また特別な州として府(開封府など特に重要な州)・軍(軍事上の要衝)・監(塩の生産地・鉱山・工場など多数の労働者が集まり、中央に直属する場所)がある。また商業の要衝に作った集落を鎮という。 太祖は地方に軍事力を持って割拠していた節度使・観察使および刺史職を全て寄禄官とし、州の権限を知州に移し、また知州の独走を防ぐために通判を付けた。当初は知州の決定は通判が同意しないと効力を発揮しないという定めになっていた。しかし時代が下るごとにその地位を低下させ、州の次官となった。 知州の下には幕職官と曹官と呼ばれる官がある。節度使が地方に割拠していた頃、節度使はその領内の最重要な州の刺史を兼任した。節度使としての官衙を使院といい幕職官が属し、刺史としての官衙を州院といい曹官が属した。後に州刺史も節度使に倣い、その下に幕職官・曹官を抱えるようになる。これが宋に入って知州が州の長官になるとそれまでは刺史によって任命されていた幕職官・曹官は中央によって任命されるようになり、その間の区分もほとんど消滅した。幕職官としては判官・推官(両者とも裁判を扱う)など、曹官は録事参軍(庶務取り扱い)・戸曹参軍(徴税・倉庫の管理など)といったものがある。後の徽宗時代に幕職官が廃されて曹官のみになるが、そのすぐ後に金によって南走したため旧に復された。 県の長は知県ないし県令である。京朝官が県の長になる場合は知県といい、選人が県の長になる場合は県令という。概ね知県は重要な州に、県令は小さな州に配される。知県ないし県令の下には県丞(次官)・主簿(事務官)・県尉(警察)などがあり、これらも選人が任命される(京朝官・選人に付いては#科挙で後述)。 また州の監督機関として路があり、そこに置かれる役職は以下のようなものがある。これらの職の上に立つ路の長官は存在しない。また路の区分は役職ごとに異なっており、例えば陝西は転運使では二路に安撫使では六路に分けられる。路の役割はあくまで監督であり、州は路に属するわけではなく中央直属の機関である。しかし時代が下るごとに路の重要性は増して次第に実際の行政機関に近くなり、後代の省の元となった。