はじめる前にに知っておくべき外国為替の基礎

一部無為替とは
輸出品の代金の一部が無為替で行なわれること。 不動産投資における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、後には落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に詩賦が重視されてこれが進士科とされていたが、王安石により進士科は経書の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。 科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き3?400人が合格した。 ワラント、寄禄官が与えられていない状態を選人という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。選人が地方で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい、また朝議に参加できるほどの高官は朝官といい、一緒にして京朝官という。 科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。 出自に関わらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。元々、開封には国子監と太学という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋年二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。これを三舎法という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。 北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、胥吏の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。 くりっく365は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを一般民衆の間から募集した徭役の一種として始まったものである。このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。南宋代の記録であるが福州(福建省)では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり[注釈 4]、胥吏無しでは行政は全く回らない状態であった。 この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。この搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して三年程度で別部署へ移る官では胥吏に頼らなければ職務を実行することは出来ず、完全に胥吏のいいなりであった。また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、「三年清知府、十万雪花銀」(三年知府をやれば、十万銀貯まる)と言われるような状態であった。 外為に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」倉法という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、清の終わりに至るまでこの胥吏体制は続いていくことになる。 宋代は司法制度が非常に発達した時代である。唐に於いて刑法に当たるものは律であるが、宋以後の大きな社会変化の中で硬直した律を使い続けることは弊害が大きかった。そこで律が不適当と思われる場合には勅が出されて判決が変更され、その勅に従って以後も進められていく。また過去行われた裁判の判例を後の裁判にも適用するようになった。これを断例という。徽宗の1105年にはこの断例を纏めた物を出版している。 宋代の刑罰は死・配流(流罪、三千里・二千五百里・二千里)・配役(強制労働、三年・二年・一年)・脊杖(背中を杖で打つ、二十から十三まで)・臀杖(尻を杖で打つ、二十から七まで)の五種類である。五代の殺伐とした世の中で刑法も極めて厳しいものになっており、後漢の時には「1銭を盗めば死刑」となっていた。宋に入って刑を軽くしていったがそれでも死刑される人数が膨大になり、太祖はこれを救済するために死刑囚に対して自ら再審し、死刑が適さないとした者にたいしては配流に処した。また死刑以下の刑罰も軽くして新たに折杖法という刑法を作った。但し軽くなったといっても唐律に比べればまだかなり重く、范祖禹は「律に比べて勅の刑罰は三倍」と述べている。 宋代の司法の著しい特徴は警察・検察・裁判の三者がこの時代に既に分立していたことである。まず県に属する県尉と路・州に属する巡検とが犯罪者の逮捕に当たる。これを巡捕という。捕らえられた者は獄(留置所)に降され、ここで獄吏による取調べが行われる。これを推鞫という。取調べが終わり、犯罪事実が明らかになるとこれに対してどのような刑罰を行うべきかが審議される。これを検断という。この過程を行うのは全て独立した部署であり、これらの役職を兼ねることは厳に禁じられた。 巡捕・推鞫・検断が終わると知県が判決を下すが、知県に許された権限は臀杖二十までで、それ以上の刑罰を科す場合には上の州へと送る。州では再び獄による取調べが行われる。州に於いては録事参軍・司理参軍がそれぞれ獄を持っており、その結果によって判官・推官によって判決の原案が作られ、最後は知州によって判決が下される。後に裁判に誤りがあったと分かれば判官・推官・録事参軍・司理参軍は全て連帯責任を負う。知州の権限は配流までであり、死刑の場合は中央へと送る。 外為が妥当とされた者のうち、死刑執行をためらう理由が無いと考えられる用件に付いては提点刑獄によって再検討するだけで良い。それ以外の者は中央へと送られる。中央にてまず大理寺がこれを受け取り、書類の上で審査する(詳断)。大理寺を通過すると次は審刑院に送られ、今度は直接本人に尋問するなどして再び審議される。大理寺と審刑院との意見がそれぞれ皇帝へと上奏され、皇帝による判決が下される。 これらの判決に対して不服がある場合には上告する権利がある。これを飜異という。 これら司法制度の整備により裁判は非常に多く行われるようになった。そのためこの時代には包拯に代表されるような「名裁判官」が登場し、その活躍は街中の芸人によって語られ人気を博した。一方で訴訟ゴロの登場や訴訟の激化(健訟)を招いたが、それだけ法と裁判が身近なものになったという証拠であろう。 宋の兵制は傭兵制であり、兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。 唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった。これを侍衛親軍と呼ぶ。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。 太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、老齢になっても解雇されなかった。廂軍には一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。 唐代では藩鎮の将帥と兵士たちの間に私的な繋がりが生じ、それが割拠の一つの原因となっていた。これに対して宋では軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える更戍制を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。また一般に兵士には逃亡防止のために顔面に刺青が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋においては「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。 また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な郷兵、辺境の異民族を軍隊に組み入れた蕃兵がある。郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。 税制は宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役(役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。